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[阅读指导] 日本人の自然観(四)

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发表于 2012-8-16 12:20:13 | 显示全部楼层 |阅读模式
  日本人の精神生活
& K7 _( d; Q4 \; w  単调で荒凉な砂漠(さばく)の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保证されるからである。また一方地形の影响で住民の定住性土着性が决定された结果は至るところの集落に镇守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
6 {* H% V- M% a# Q  仏教が远い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教义の含有するいろいろの因子が日本の风土に适応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある无常観が日本人のおのずからな自然観と相调和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鸭长明(かものちょうめい)の方丈记を引用するまでもなく地震や风水の灾祸の频繁(ひんぱん)でしかも全く予测し难い国土に住むものにとっては天然の无常は远い远い祖先からの遗伝的记忆となって五臓六腑(ごぞうろっぷ)にしみ渡っているからである。4 p8 I# Y) c' c4 f, }; u
  日本において科学の発达がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特异性に连関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠(さばく)の国では天文学は発达しやすいが多雨の国ではそれが妨げられたということも考えられる。前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予测し难い地震台风に鞭打(むちう)たれつづけている日本人はそれら现象の原因を探究するよりも、それらの灾害を軽减し回避する具体的方策の研究にその知恵を倾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに无常であったかもしれないのである。
3 Z3 ]3 o1 O8 Q9 d# g& w. q3 E  现在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から见ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発见」し「证明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。( J3 W- Y! n; D
  ともかくも日本で分析科学が発达しなかったのはやはり环境の支配によるものであって、日本人の头脳の低级なためではないということはたしかであろうと思う。その证拠には日本古来の知恵を无视した科学が大耻をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。
8 H! h: R4 q  Y  日本人の精神生活の诸现象の中で、何よりも明了(めいりょう)に、日本の自然、日本人の自然観、あるいは日本の自然と人とを引きくるめた一つの全机的な有机体の诸现象を要约し、またそれを支配する诸方则を记録したと见られるものは日本の文学や诸芸术であろう。
: R2 Q+ p) I9 F$ A4 [7 o9 N  记纪を文学と言っては当たらないかもしれないが、たとえばその中に现われた神话中に暗示された地球物理的现象の特异性についてはかつて述べたことがあるから略する。% z9 \- ]7 B& H) }8 h8 U# G
  おとぎ话や伝説口碑のようなものでも日本の自然とその対人交渉の特异性を暗示しないものはないようである。源氏物语や枕草子(まくらのそうし)などをひもといてみてもその中には「日本」のあらゆる相貌(そうぼう)を指摘する际に参考すべき一种の目録书きが包蔵されている事を认めることができるであろう。
7 H4 k! V/ P$ A9 Q  こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短诗形の中に盛られたものは、多くの场合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全机的有机体日本が最も雄弁にそれ自身を物语る声のレコードとして见ることのできるものである。これらの诗の中に现われた自然は科学者の取り扱うような、人间から切り离した自然とは全く趣を异にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人间に消化され、人と自然が完全な全机的な有机体として生き动くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい夸张ではあるまいと思われるのである。西洋人の诗にも汉诗にも、そうした倾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る范囲内では、外国の诗には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈(フィロソフィー)が生まれたり教训(モラール)が组み立てられたりする。万叶の短歌や蕉门(しょうもん)の俳句におけるがごとく人と自然との浑然(こんぜん)として融合したものを见いだすことは私にははなはだ困难なように思われるのである。# L( ]9 S% W3 k( O' a
  短歌俳谐(はいかい)に现われる自然の风物とそれに付随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳谐歳时记(はいかいさいじき)がある。俳句の季题と称するものは俳谐の父なる连歌を通して歴史的にその来歴を追究して行くと枕草子や源氏物语から万叶の昔にまでもさかのぼることができるものが多数にあるようである。私のいわゆる全机的世界の诸断面の具象性を决定するに必要な座标としての时の指定と同时にまた空间の标示として役立つものがこのいわゆる季题であると思われる。もちろん短歌の中には无季题のものも决して少なくはないのであるが、一首一首として见ないで、一人の作者の制作全体を通じて一つの连作として见るときには、やはり日本人特有の季题感が至るところに横溢(おういつ)していることが认められるであろうと思われる。
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 楼主| 发表于 2012-8-16 12:20:14 | 显示全部楼层

日本人の自然観(四)

  枕词(まくらことば)と称する不思议な日本固有の存在についてはまだ彻底的な説明がついていないようである。この不思议を説明するかぎの一つが上述の所説からいくらか暗示されるような気がする。统计を取ってみたわけではないが、试みに枕词の语汇(ごい)を点検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言叶が非常に多く、中にはいわゆる季题となるものも决して少なくない。それらが表面上は単なる音韵的な连锁として用いられ、悪く言えば単なる言叶の游戯であるかのごとき観を呈しているにかかわらず、実际の効果においては枕词の役目が决して地口やパンのそれでないことは多くの日本人の疑わないところである。しかしそれが何ゆえにそうであるかの説明は容易でない。私のひそかに考えているところでは、枕词がよび起こす连想の世界があらかじめ一つの舞台装置を展开してやがてその前に演出さるべき主観の活跃に适当な环境を组み立てるという役目をするのではないかと思われる。换言すればある特殊な雰囲気(ふんいき)をよび出すための呪文(じゅもん)のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特异な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を论理的科学的な立场から见ることのみを知ってそれ以外の见方をすることの可能性に心づかない民族にとっては、それは全くのナンセンスであり悪趣味でさえもありうるのである。" N/ t% v8 D2 V$ J8 K$ i% r; x
  こんなことを考えただけでも、和歌を外国语に翻訳しただけで外国人に味わわせようという试みがいかに望み少ないものであるかを了解することができるであろう。また季题なしの新俳句を制造しようとするような运动がいかに人工的なものであるかを悟ることができるであろうと思われる。0 S0 R  x$ z" }5 R( S& M& ?4 X
  日本人の特异な自然観の特异性をある一方面に分化させ、その方向に异常な発达を遂げさせたものは一般民衆の间における俳谐発句(はいかいほっく)の流行であったと思われる。かえってずっと古い昔には民衆的であったかと思われる短歌が中叶から次第に宫廷人の知的游戯の具となりあるいは僧侣(そうりょ)の遁世哲学(とんせいてつがく)を讽咏(ふうえい)するに格好な诗形を提供していたりしたのが、後に连歌という形式から一転して次第にそうした阶级的の束缚を脱しいわゆる俳谐から発句に进化したために着しくその活跃する世界を拡张して诗材の摂取范囲を豊富にした。それと同时にまた古来の诗人によって养われ造り上げられて来た日本固有の自然観を広く一般民衆の间に伝播(でんぱ)するという効果を生じたであろうと想像される。俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人残らずみんな诗人であるという。これは単に俳句の诗形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう诗形を可能ならしめる重大な原理がまさに日本人の自然観の特异性の中に存し、その上に立脚しているという根本的な事実を见のがしてはならない。そういう特异な自然観が国民全体の间にしみ渡っているという必须条件(ひっすじょうけん)が立派に満足されているという事実を忘却してはならないのである。2 N% c0 C( I8 \, a( E6 N
  短歌や俳句が使い古したものであるからというだけの単纯な理由からその诗形の破弃を企て、内容の根本的革新を梦みるのもあえてとがむべき事ではないとしても、その企図に着手する前に私がここでいわゆる全机的日本の解剖学と生理学を充分に追究し认识した上で仕事に取り挂からないと、せっかくな企図があるいはおそらく徒労に终わるのではないかと忧虑されるのである。1 S2 y1 H, I; l& @7 A6 v, }
  美术工芸に反映した日本人の自然観の影响もまた随所に求めることができるであろう。+ |0 _% z7 I3 h1 e
  日本の絵画には概括的に见て、仏教的汉诗的な输入要素のほかに和歌的なものと俳句的なものとの三角形的な対立が认められ、その三角で与えられるような一种の三角座标をもってあらゆる画家の位置を决定することができそうに思われる。たとえば狩野(かのう)派;土佐(とさ)派;四条(しじょう)派をそれぞれこの三角の三つの顶点に近い所に配置して见ることもできはしないか。
$ ]$ b9 w5 v$ u6 K1 S6 m  それはいずれにしてもこれらの诸派の絵を通じて言われることは、日本人が输入しまた创造しつつ発达させた絵画は、その対象が人间であっても自然であっても、それは决して画家の主観と対立した客観のそれではなく両者の结合し交错した全机的な世界自身の表现であるということである。西洋の画家が比较的近年になって、むしろこうした絵画に絵画本来の使命があるということを発见するようになったのは、従来の客観的分析的絵画が科学的复制技术の进歩に胁かされて穷地に立った际、偶然日本の浮世絵などから活路を暗示されたためだという説もあるようである。
( r) ]: [2 T/ J; R  `  次に音楽はどうであるか。日本の民衆音楽中でも、歌词を主としない、纯粋な器楽に近いものとしての三曲のごときも、その表现せんとするものがしばしば自然界の音であり、また楽器の妙音を形容するために自然の物音がしばしば比较に用いられる。日本人は音を通じても自然と同化することを意図としているようにも思われる。
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