初唐の盛世を形容して、よく唐初三代の治という。' ` X& F$ U" [) z: }
贞観の治(太宗の627~734)& z: ~/ d6 B" ~
永徽の治(高宗の650~655)
8 {7 b* D6 h% O 开元の治(玄宗の713~734)のことである。, u" q Y. s: n$ y H- A
これらの时代には、皇帝が奢侈を戒め、よく贤臣を用いて、天下大いに治まったからである。
, J) C: h4 N; L1 `* j とくに太宗の贞観の治は、後世の治世の监とされ、民は「道に遣ちたるを拾わず、商旅は野宿す?(道傍に落ちているものを拾わず、盗贼がいないので安心して野宿する)ほどの太平の世であった。太宗が群臣と政事を论じた语を类偏した「贞観政要」が、徳川家康の施政の参考にされたことは有名である。
- n" g% {# r+ Q 贞観の治が生まれた原因の一つは、前述したように、太宗が奢侈を戒め、多くの贤臣を得たためであった。贞観の初め、决断に秀でた杜如晦と、计を练るに秀でた房玄齢の名コンビが左右の仆射(大臣)を、刚直の魏徴が秘书监长を、清廉の王珪が侍中(侍従职)をつとめ、太宗の政治をよく辅佐したからにほかならない。
9 _. s7 p$ G% z9 O5 ` あるとき、太宗が、王珪に向かって、5 m( z k, J5 X% L2 U0 M: S
「その方は、玄齢以下のものたちと比べてどうか。」5 ~( u8 a/ {. Z1 I+ {6 z. p1 }: x- s8 y0 N
と下问したとき、王珪はこう答えている。
- F" X3 z7 }4 n# \1 ? 「孜々として国に奉じ、知って言わぬことのない点では、臣は房玄龄には及びません。
! D* A9 ?) x- _7 Z! P 才が文武を兼ね、入っては宰相、出でては大将たる点では、臣は李靖にかないません。3 a% x% N/ V3 |" I
君主が尧舜のようでないことを耻じ、谏诤をもって己の任となす点では、臣は魏徴にかないません……。」
, D Z0 P# s- R5 `! Q/ N また、太宗はかつて近臣たちにこう下问したことがあった。
5 x5 ]8 n6 f# N' }4 ^8 ~* G& @$ Z 「创业と守成とはいずれが难き?」
! h/ H" ^' R8 n U1 U 房玄龄はこう答えた。
6 Y4 F3 p* u4 j. p- t s5 Z 「草眛の初めは、群雄竞い起り、攻め破って降伏させ、戦って打ちかつのですから、そういう点からいえば、创业の方がむずかしいと思われます。」
7 k X! M; j8 }/ t, J o0 \* P 魏徴は、しかしこう答えた。
1 M( s" j- J) ^4 w) ? 「昔から帝王は位を艰难の间に得て、これを安逸の间に失うものです。
, G4 m% B' Q2 ~: M% a そういう点からいえば、守成の方がむずかしゅうございましょう。」. r2 u3 u9 V6 Y8 N5 r5 \
すると、太宗は言った。- F. {% q" B$ G2 o
「玄齢は朕とともに天下を取り、百死に一生を得た。
% E6 a5 x- F" a# e2 G6 v だから创业のむずかしさを知っている。
4 T1 H: o9 p$ k! X8 P 徴は自分とともに天下を安んじ、常に骄奢は富贵から生じ、祸乱はゆるがせにするところから生ずることを恐れている。
% ~' i/ F; m" Q) K' \# l だから、守成のむずかしさを知っている。, Y8 A; a) Z& }
しかし创业のむずかしさは、もう去った。
7 V9 x. ^# Y. l( O( K4 d+ ]' z, t: k いまは、守成のむずかしさを诸公らとともに慎もう。」9 e* q+ Y( q9 E
(?唐书?房玄龄伝)9 L0 K+ F1 R8 Z2 Z, a% [1 ?
?创业?は?孟子?に见える语で、?业を创める?(しごとはじめる)こと。) Y \% }$ d. w4 m( A c
?守成?とは成业を保守するいみである。?贞观政要?の注に、
* s) I( `, a0 B' ~; Q: Q 「古より业を创めてこれを失うものは少なく、成るを守ってこれを失うもの多し」3 `( }; |( J+ e- i/ y
とある。+ B" @, Q- t& \# I0 e- I0 Z! A5 v
太宗は自分の伟采が臣下に恐れられているのを知っていて、いつも温顔で群臣に接し、谏めるものを赏した。ただ、末年には东征を谏められても聴かず、しだいに奢侈に流れていった。?创业は易し守成は难し?の感が深い。高宗の永徽の治も、いわゆる武韦(则天武后と韦后)の乱のため、また玄宗の开元の治も杨贵妃や安禄山の乱のため、しだいに倾いていったのである。 |