「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」/ I4 V/ u- N6 a
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘(さや)を払って、白い钢(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球(めだま)が(まぶた)の外へ出そうになるほど、见开いて、唖のように执拗(しゅうね)く黙っている。これを见ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意识した。そうしてこの意识は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの间にか冷ましてしまった。後(あと)に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した时の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を见下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
) g* [! l. n: S 「己(おれ)は検非违使(けびいし)の庁の役人などではない。今し方この门の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄(なわ)をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今时分この门の上で、何をして居たのだか、それを己に话しさえすればいいのだ。」
. p, Z0 B7 Z" g* q& P すると、老婆は、见开いていた眼を、一层大きくして、じっとその下人の顔を见守った。(まぶた)の赤くなった、肉食鸟のような、鋭い眼で见たのである。それから、皱で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように动かした。细い喉で、尖った喉仏(のどぼとけ)の动いているのが见える。その时、その喉から、鸦(からす)の啼くような声が、喘(あえ)ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
3 }1 k" r% P. q9 g% M& I 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘(かずら)にしようと思うたのじゃ。」
: D. l, I3 l8 v, H* b 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同时に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑(ぶべつ)と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色(けしき)が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の头から夺った长い抜け毛を持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
' d( d% {: s, T9 C& m3 M6 ]) X 「成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人间ばかりだぞよ。现在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸(しすん)ばかりずつに切って干したのを、干鱼(ほしうお)だと云うて、太刀帯(たてわき)の阵へ売りに往(い)んだわ。疫病(えやみ)にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干鱼は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料(さいりよう)に买っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饥死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饥死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に见てくれるであろ。」
8 ?; K& A2 k" d2 _! O' u: L 老婆は、大体こんな意味の事を云った。/ G" [6 T/ p y3 x
下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄(つか)を左の手でおさえながら、冷然として、この话を闻いていた。勿论、右の手では、赤く頬に脓を持った大きな面疱(にきび)を気にしながら、闻いているのである。しかし、これを闻いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき门の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの门の上へ上って、この老婆を捕えた时の勇気とは、全然、反対な方向に动こうとする勇気である。下人は、饥死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その时のこの男の心もちから云えば、饥死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意识の外に追い出されていた。# {; X4 k/ u$ m+ R8 P9 f: v K
「きっと、そうか。」
) A+ u) Z3 t3 s/ V+ L: A& D 老婆の话が完(おわ)ると、下人は嘲(あざけ)るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面疱(にきび)から离して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、噛みつくようにこう云った。3 A0 q. S, @: v3 `5 S4 g9 r
「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饥死をする体なのだ。」
' w: t2 U) g% s 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、仅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった桧皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく间に急な梯子を夜の底へかけ下りた。" A7 I* c( g" A( R, K
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから间もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、这って行った。そうして、そこから、短い白髪(しらが)を倒(さかさま)にして、门の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。 |